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vol.03 高度経済成長期の到来

壊滅的被害を受けた日本が、復興に向けて歩き出す

1939年にドイツのポーランド侵攻により始まった第二次世界大戦は、史上最大規模の戦争となりました。政府は、贅沢な生活を悪と見なし、軍需品の生産を最優先にする政策を採りました。さらに、食料の生産や流通をも統制。都心部を中心に人々の生活は困窮を極めるようになりました。やがて、兵力が不足するようになると、“学徒出陣”といって、20歳以上の文系学生などを出陣させ、多くの若者が命を落としました。空襲により全国の都市は焼け野原となり、広島と長崎は原子爆弾が投下され40万人以上の死者が出ました。あまりにも多くの傷を与えた第二次世界大戦は、開戦から6年経った1945年8月15日、ようやく幕を閉じたのです。第二次世界大戦により200万人の戦死者が出て、国富の4分の1が空襲などで失われたと言われています。

終戦後の日本の大きな課題は、戦争により壊滅した日本経済を立て直すことにありました。GHQ(連合国軍総司令部)が主導して経済政策を進め、生活救済資金や産業復興資金を提供。農地改革、財閥解体、労働組合の活動支援などを行い、日本経済の復興を支えました。農地改革は、地主が所有していた農地を小作農家に分け与えたことで、「農民の生活が向上する」という効果が現れました。財閥解体の措置は経済民主化の動きを促進させ、中小企業の設立や育成に繋がりました。そして労働組合の育成や活動を支えたことで、企業に勤める労働者たちの生活も向上しました。

その後、日本も経済復興政策を進めるようになります。復興資金供給を目的に復興金融債を大量に発行したことで、ハイパーインフレが起こってしまいました。この状況を打破するために、アメリカの大統領特命公使が来日。在籍緊縮をはじめとする強攻策を採り、インフレは終息したものの、企業の倒産を引き起こし、“安定恐慌”と呼ばれる不況を巻き起こしました。

このように混迷を来した日本ですが、朝鮮戦争を機に特需が発生したことから、好景気に転換しました。その後、“高度経済成長期”が到来。急速に日本経済が成長していきました。

高度経済成長期に突入し、名実ともに経済大国となった日本。

高度経済成長期は、1955年〜1973年までの19年間を指します。日本経済は、年平均で10%もの成長を続けました。

この時期に、まず起こったのが技術革新です。自動車産業、電気機械業、化学工業、造船業などのメーカーが、海外から革新的な技術を採り入れ、新しい設備を導入。会社の規模を拡大していきました。また、耐久消費財である冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビが“三種の神器”と呼ばれ、家電市場が拡大。人々の生活水準も向上し、耐久消費財の普及が進みました。

こうした各産業の市場拡大や製造設備導入の動きを先読みしたのが鉄鋼業です。大規模な製鉄所の新設を進め、生産量を大幅に増大。生産効率の向上も推し進め、その勢いはアメリカをはじめとする他国を圧倒するほどでした。このように、「投資が投資を生む」状態が続くことで連鎖的に各産業の生産性が向上し、雇用者数も増大していったのです。また、家電メーカーや自動車メーカーなどに部品を供給する中小企業も、高度経済成長期に大きな発展を遂げています。

加えて、日本の企業は、生産管理や品質管理、労働管理などの技術も海外から採り入れていきました。これにより、低コストで効率よく高品質の工業製品を大量かつ安定的に生産できる体制がつくられました。その後、日本のメーカーが製造した製品は海外に輸出されるようになります。

金融業も、成長を続ける企業を力強く支えました。当時の日本は低金利政策が採られており、大手企業が設備投資を行う際に銀行から融資を受けたのです。当初は預金額を上回る額を貸し付けるケースも多くありました。

そして1964年、東京オリンピックが開催。東名高速道路や東海道新幹線が開通されるなど、周辺地域のインフラが整備されたことで、日本の景気はさらに高まりました。1968年にはGNP(国民総生産)がアメリカに次いで2位に躍り出て、名実ともに日本は“経済大国”となったのです。

産業構造の変化と、日本的経営の確立。

高度経済成長期に製造業が急速に成長を続けていった一方、流通業の成長はなかなか進みませんでした。しかし、成長の芽は着実に芽生え、流通業もまた革進を遂げます。たとえば、スーパーマーケットがセルフサービス方式やディスカウント方式を採用し、チェーン展開化する企業も現れました。また、大手スーパーマーケットの中には総合スーパー化をし、大型店舗を次々と出店する企業も。スーパーマーケットの売上高が百貨店のそれを追い越すほどでした。そして、ホームセンターやショッピングセンターなど、アメリカの小売業を参考に新しい業態も生まれました。

こうして、第二次・第三次産業が成長していったため、第一次産業の比重が下がり、産業構造そのものに大きな変化が起こりました。エネルギー源も石炭から石油へと移行し、石炭産業が衰退していきました。

前述の通り、日本のメーカーは製品の輸出を進めていきましたが、1960年に貿易が自由化され、為替の自由化と資本取引の自由化が実施されたことで、新たな動きが出ました。資本取引の自由化とは、国際間での資本移動を可能にするものです。これにより、国際競争の激化が予測されました。大手企業は合併化を進め、巨大な企業集団をつくり上げました。これにより、国際競争に立ち向かっていく力を築いたのです。

当時の日本企業は、終身雇用制と年功序列型の賃金体系による“日本的経営”を行っていました。長期雇用を前提とした年功序列式の人事システムは、「若手労働者を採用・育成することで、効率的な組織運営を行う」というメリットをもたらしました。「長く働けば昇進できることから、従業員が愛社精神や仕事への意欲を高める」という効果もありました。この日本独特の経営手法が、高度経済成長期の日本企業を支えていたのです。

まとめ

戦後の復興期から高度経済成長期にかけて、日本は大きく様変わりしました。モノが不足し、生活にもあえいでいた人々は、日本経済が成長したことにより“新たな仕事”を得て、“豊かな暮らし”ができるようになりました。この時期の日本企業は、「戦争ですべてを奪われた日本の人々が平穏な暮らしを取り戻し、経済大国として日本の国際的地位を向上させる」という意味でも、大きな役割を果たしたのです。高度経済成長期を終えた日本は、その後「安定成長期」を迎えます。安定成長期から現在にいたる日本企業の変遷については、次回ご紹介いたします。

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