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- 理系産業のトレンドを知る 第4回「ライフサイエンス」
「情報技術(IT)」や「遺伝子編集」などに代表されるテクノロジーの進化が、新たな産業を生み、企業のビジネス戦略を牽引する現代社会。
ここでは、今後、テクノロジー・トレンドの主役となるであろう研究・開発分野の現況を、各分野の学識経験者の方々に語っていただきます。
第4回「ライフサイエンス」

科学技術振興機構
研究開発戦略センター
フェロー
島津 博基
膨大なデータを扱える、
情報も生物もわかる
人材の育成が急務
人間の遺伝子解読にかかる時間と
コストの減少

1990年にアメリカが中心となって始められた「ヒトゲノム計画」は、13年という歳月と、30億ドルという巨費を投じることで、人間の遺伝子の解読を完了しました。ところが、その後、遺伝子解読技術は飛躍的に進歩し、2014年には1人の人間の遺伝子をわずか1,000ドルで解読する「1,000ドルゲノム」が実現。技術進展はさらに進み、今ではさらにコストダウンし、必要な時間も短縮しています(上図参照)。患者のゲノムを調べて、最適な治療方法を選択する個別化医療というものが現実味を持って語られるようになっています。
今般のコロナ禍においても、世界各地の研究機関から提供された「患者から採取したウイルスの遺伝子配列データ」をベースに、ウイルスの感染拡大の様子を系統樹や世界地図を用いて可視化することが可能になり、変異株の発生や拡散なども早期に発見できるようになっています。

しかも、世界ではDNAの遺伝情報だけでなく、その遺伝情報をもとに、いかなるRNAが転写され、タンパク質が合成されるかまでの解析を「一細胞」単位で扱う「一細胞オミクス技術」の研究が進んでいます。これからの時代、ライフサイエンスは、37兆個ともいわれているヒトの細胞1つずつのプロファイルや、その関係性など内的宇宙とも呼べる膨大なデータを扱うようになると考えられています。
また、アミノ酸の配列情報からタンパク質の立体構造を予測するAIがクライオ電子顕微鏡などの実験的手法と同レベルの精度で予測が可能になったことが世界的に大きな成果として取り上げられています。
今後の研究は膨大なデータから生命現象や薬物の効果を計算機で予測してから実験を行うようになっていく、コンピューテーショナル・バイオロジーの側面が次第に大きくなっていくでしょう。
そのためには膨大なデータから生命現象の意味をとらえ、予測するバイオインフォマティクスやデータ科学の研究者の存在が欠かせません。しかし、残念ながら欧米と比較すると、日本におけるバイオインフォマティシャンやデータ科学も理解できる生命科学者の育成は遅れていると言わざるを得ないのが実情です。
今後はより積極的な人材育成策が求められます。例えば、情報工学を専門とする学部の新設を通して、計画的にバイオインフォマティシャンを増やしていかなければなりません。もちろん生命科学分野に情報工学の専門家が集まる魅力的なキャリアパスを作ることも重要で、医学部や生命科学系の学部、学科に情報工学の専門コースを新設し、出身研究分野にこだわらず、積極的に人材を登用していくことが求められます。もはや生命科学、医科学のすべての研究者にとってインフォマティクス・データ科学は必須であり、教育のカリキュラムの見直しも必要でしょう。
ゲノム編集の可能性とELSIの問題
CRISPR-Cas9が、DNAを切断する
ゲノム編集の様子を示した図

従来の遺伝子操作と異なり、ゲノム編集は狙った領域をピンポイントで改変できることから、近年、多くの生命科学の研究に取り入れられているようになっています。
第3世代のゲノム編集とされる「CRISPR-Cas9(クリスパー・キャス9)」では、ガイドRNAが相補的な塩基配列を持つ領域に、DNAを切断する働きを持つ酵素のCas9を運ぶことで、狙った遺伝子を壊す(切断する)ことが可能です(上図参照)。
この技術は、すでに少なくとも研究レベルでは農産物、水産物の改良に利用されていますし、今後、病気にかかわる遺伝子の改変にも使えるようになれば、医療現場でもゲノム編集を取り入れた治療技術が使われるようになるでしょう。
ただし、本格的な商用利用が始まる前に考えておかなければならないのが、生命倫理やELSI(Ethical, Legal and Social Issues)の問題です。ゲノム編集を施した食料が人間にとって安全なのか、医療で副作用が起こらないか、研究の進展と同時にこういったメリットとデメリットを社会、国民がいち早く理解できるような体制を整え、必要なものは早く社会に浸透させていかなければならないのです。
期待膨らむ新しい医療技術。
しかし、莫大なコストが
懸念される
人工多能性幹細胞「iPS細胞」

ノーベル賞を受賞した京都大学の本庶佑特別教授による、がんの新しい薬の研究はその治療費が高額であることでも話題になりました。また、同じく京都大学の山中伸弥教授が開発したiPS細胞も近年、活発に研究された結果、複雑な構造を持たない臓器に限られるとはいえ、体外で培養した臓器の移植が期待できるようにまでなってきました。目の網膜における一部の疾患については、すでに患者にiPS細胞を変化させた細胞を移植する臨床研究が行われており、近い将来の実用化が期待されています。さらに現在は、がん患者さんの細胞を取り出してゲノム編集で遺伝子を改変して体内に戻してやる細胞治療やゲノム編集を直接用いた遺伝子治療の臨床研究が進められています。
しかし、一方ではこれらにかかる莫大な医療費の問題が懸念されています。前述した網膜の再生医療の場合、一説には1億円程度のコストがかかったとも言われています。これらの医療が普及すれば、それだけ多くの患者に福音をもたらすものの、現在の医療保険制度にとっては破綻の危機を抱えかねないでしょう。
研究の進展によってコストダウン化は進むと思いますが、それでも従来の医療技術に比べて高額であるのは間違いありません。これらの治療により患者さんが社会復帰できることも考えた場合、長期的に見て、どの程度の金額までであれば社会で許容されるでしょうか。この点は医療経済的に評価して、どのような医療保険制度の下、実用化していくかを今からしっかり議論していかなければなりません。
これまでに説明してきたAI創薬やゲノム編集を用いた遺伝子治療、細胞治療、新型コロナウイルスのmRNAワクチン等、この分野の新しい科学技術駆動のイノベーションはスタートアップ・ベンチャー企業が牽引しています。日本では優れた研究成果を基に、起業したり、商業化するための目利きのできる人材が圧倒的に不足しています。学生さんは是非アントレプレナーシップを学んでほしいと思います。
国際的な人材の流動化が
日本の生命科学を強くする

日本の生命科学を発展させるためには、研究者だけでなく、研究を支援するさまざまな人材が欠かせません。生命科学を巡るキャリアパスが多様化していく中で、若い理系人材に意識していただきたいことは海外に出ることです。
近年の調査により、日本の若者が海外に留学したがらず、内向き志向であることが明らかになっています。こうした背景には、日本の研究環境の整備が進み、海外に留学しなくても、国内で質の高い研究ができるようになっていることとかかわっています。しかも、日本の研究機関は海外の人材を雇用することが少なく、いったん海外の研究機関に籍を置くと、帰国後のキャリアパスに支障が出ることへの懸念も一因となっているのでしょう。
しかし、欧米の多くの研究機関では、海外から優秀な研究者を招聘することが積極的に行われており、日本以外に目を向ければ海外で職を得ることもできるはずです。是非とも選択肢の1つとして海外に出ることも考えてもらいたいと思います。
また、日本では少子化により研究者人口が減少していくのは明確です。大学、研究機関の方々には、これまで以上に海外からの人材を登用すべく環境を整備していただきたいと考えています。
日本の生命科学は発展してきましたが、欧米から後れを取っている分野があるのも否めぬ事実です。そうした分野における優秀な人材を海外から招聘すれば、後れも取り返せるはずです。国際的な人材の流動化の流れに日本も乗ることで、生命科学はさらに強くなれると期待しています。
第4回「ライフサイエンス」 テーマ監修
- 島津 博基(しまず ひろもと)
- 国立研究開発法人 科学技術振興機構
研究開発戦略センター
フェロー
大阪大学大学院理学研究科を修了後、科学技術振興機構に入社。産学連携のファンディング事業(プロジェクト管理)を担当の後、情報分野、ナノテク・材料分野、環境・エネルギー分野の調査分析、戦略立案を経て現職。科学専門分野での研究の傍ら、弁理士試験にも合格。 -