アイドルの「推し活」が、「生き活」だった話

私の“推し”は、アイドルのK君。
気づけばもう、7年の月日が流れた。
今や多くの人にとって当たり前の「推し活=推しを応援する活動」。
でも、私のそれは、ただ一生懸命に応援することとは少し違う。
グッズを集め、ライブに通い、SNSを常に追いかけるような活動ではない。
もちろん、上記のことに勤しむ時期もあったけれど。
私にとっての推し活は、
アイドルという他者を通して、私という人間の「生き方を見つけていく活動」だった。
推す、という行為が、私の中でいつの間にか「生き方」への姿勢に変わっていった。
気づけば、K君は私の中に静かに根を張っていた。

「推し」は私の外にいた。でも、私の中にいた。

中学生の頃、学校にも部活にも、自分の居場所がなかった。
友達と話していても、どこか自分だけが遠い場所にいるような、そんな感覚があった。
自信もなく、勇気もなくて、毎日が少しだけしんどかった。
そんなときに出会ったのが、K君だった。
画面の向こうの彼は、まぶしかった。
歌って、踊って、笑って、全てがキラキラしていて、ただ「好き」と思えることに救われた。
最初は、顔やパフォーマンスに惹かれただけだったと思う。
でも、時間が経つにつれて、彼の“中身”に気づいていった。
ステージの裏で、どれだけの努力をしているのか。
どれだけの不安や孤独を抱えながら、それでも前に進み続けているのか。
そうして見えてきたのは、「完璧な存在」ではなく、
不完全さを抱えながら、それでも光を生もうとしている一人の人間だった。
K君は、いつの間にか「神様」ではなくなった。
その瞬間から、私は本当の意味で彼を尊敬するようになった。

推しは、ライバル。

推しがいると、なにかに迷ったときに「推しだったらどうする?」って考える人が多い。
でも、私は一度もそう考えたことがない。
それでも、どんなときにも、K君は私の中にいた。
K君がやりそうな行動を考えて模倣するのではなく、
K君の今までの行動を振り返って勇気をもらう感覚。
受験勉強で心が折れそうになったとき。
人間関係に悩んで、自分が嫌になったとき。
「K君も、今ちょうど舞台の稽古で大変って言ってたな」
「昨日の配信、すごく疲れてたけど、最後までファン想いだったな」
そんな風に、彼の行動や言動が頭をよぎるだけで、私は少しだけ前を向けた。
K君が伴走してくれている感覚であり、切磋琢磨するライバルのような感覚だった。

努力の理由が、自分の「外側」にあった。

K君は、特別な人だと思う。
才能もあるし、容姿も恵まれている。グループも人気で、ファンもたくさんいる。
でも、彼はそこで止まらなかった。
一年に一度は必ず、死ぬほど努力して、限界に挑戦して、結果を出し続けている。
今年はミュージカルの主演、ギターやドラムへの挑戦、写真展、グッズ作成、作詞作曲、ソロアルバム、ソロライブ。
グループの活動(CD、テレビ、雑誌、YouTubeなど)を当たり前にこなしたうえで、それだけの挑戦を続けている。
そして、不思議なことに、その努力の一つひとつは、やがて“当たり前”になっていく。
努力していたことを、見る側が忘れてしまうくらいに。
彼はそれを自分の血肉にして、次のステージへ進んでいく。
そんなK君の姿を、私は7年間、静かに見てきた。
それはただの憧れではなかった。
そこには私の知らない、私にはできていない“生き方”があった。
私の中にある“努力の基準”が、K君になっていった。
私が何かをやり遂げられたとき、それは私が強かったからではない。
彼の姿勢が、私の中に根づいていたからだ。

変わっていった推し方。けれど、変わらなかったもの。

K君を神様のように崇めていた時期もあった。
すべての番組をチェックして、CDもグッズも欠かさず買って、
ライブが決まればダイエットにも本気で取り組んだ。
でも、今は違う。
必要なものだけを買い、自分のペースで応援している。
SNSも以前ほど熱心には見なくなった。
だけど、私の中でK君が占める存在感は、あの頃よりむしろ濃くなっている。
完璧なファンでいようとすることよりも、
彼の生き方を、自分の生き方に重ねながら存在することのほうが、今の私には大切だ。

アイドルという「生き方」が、私を動かした。

K君がもし、スポーツ選手だったら、私はここまで推していただろうか。
正直、自信がない。
もちろん、1つの分野で結果を出すことは素晴らしいと思う。
けれど私が惹かれたのは、「何かを極める姿」ではなく、それぞれ異なる場面で「どう生きているか」という一貫した姿勢だった。
歌い、踊り、演じ、笑いながら、様々な表現を通して自分を届ける。
その裏で、悩み、迷いながらも、誰かの幸せのためにステージに立つ。
そんな彼の姿には、ただ強いだけではない、人間らしさと美しさがあった。
それは、アイドルという存在だからこそ、私に届いたものだった。

そして「推し」を通して、自分になっていく。

K君のような人になりたいわけではない。
でも、彼の姿を見てきた時間が、
私の中に“生き方の癖”のようなものを残していった。
困難に出会ったときに踏ん張れるようになったのも、
少しずつでも自分のことを認められるようになったのも、
きっと、彼が私の中にいたからだ。
それは、応援でも、見守りでもない。
ただ、「共に存在している」──そんな感覚に近い。

「推し活」は、私の“生き活”だった。

私にとっての“推しのアイドルを応援する活動”。
それは何かを追いかけ、何かを頑張ることじゃない。
推しのように努力し、推しのように諦めず、
推しのように、目の前の現実を美しく受け止めながら、
私は私の道を、私の足で歩いていく。
「推す」という行為が、私の中で「生きる」ということに変わっていた。
K君という人間があらゆる場面で見せてくれた生きる姿勢を、自分の中に取り込んでいくこと。 それが、私にとっての推し活だ。

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