推しがいることは幸せじゃない。

昨今「推し」という言葉が主流になり、誰もが推しの一人や二人いることが当たり前のようになってきた。
今この記事を読んでくれているあなたにも推しがいるかもしれない。或いは、推しがいないからこそ、「推し活」をしているファン心理を知りたいという思いからこの記事にアクセスしてくれたのかもしれない。

ではここで一度、あなたの「推し」を思い浮かべてみてほしい。
推しがいない方は、好きな風景、道、ペット、色などでも構わない。

思い浮かべてもらったところで質問です。
あなたはその「推し」をなぜ推していますか?
もしくは、なぜ推しを推すことを辞められませんか?

私の答えは「早く死にたいから」になります。

楽しいイメージの推し活になぜ「死にたい」というマイナスな回答が出てくるのか。
これは1+1=2のように固定の答えがある問題ではない。この問題は人の生きてきた背景によっては1+1の解が100にも2000にもなってしまうような話だ。
だからこれは私の場合の「推し活」の解が幸せじゃないというだけで、幸せという解を持ち、推し活をしている人を否定する文でもない。
ただ、私が「推し活」という言葉に対して感じるイメージを因数分解したらこうなったというだけの話だ。

この記事を読んで私はそうは思わないと思ってもらっても構わない。ただただ、どこかの誰かの独り言だと思って読んでほしい。

普通の顔をして生きるため

私は舞台に出演することを生業としている人を推している。
ここで少し、推しが出演する”舞台”についての話をしよう。
本当は出演している作品の全日程を観に行きたいところではあるが、昨今のチケット高騰化による影響をもろに受けている学生として、財布やクレジットカード限度額と相談(※)し、最低でも3回は行く。
(※ちなみにこの記事を執筆している11月現在、推し出演作品のチケット支払いでクレジットカードの限度額を超え、全ての支払いを銀行口座に紐付けたQRコード決済に移行している。「相談」ができているかはとても怪しい。)
それに加え、推しが出演していたおもしろかった舞台の演出家さんの別作品や、タイトルだけを見て「おもしろそう!」と思い、演出家さん、出演者さん、誰一人存じ上げない(これは私の知識不足が原因でもある)舞台を観に行ったりすることもある。
そのような奇行を繰り広げていると、知人からよく
「人生楽しそうだよね」
「推し活が好きなんですね」
というお声をいただく。

その場の雰囲気を悪くしないために言わないようにしているが、私は人生が楽しいと思ったことはないし、「推し活」という言葉も、若者が軽く消費する趣味の一つのような言い方でとても嫌いである。伝わりやすさを優先し、「推し活」という言葉を使用していたが、私の行動を「推し活」だとは言わないでほしい。

ではなぜ推しを追っているのか。
その前に、ひとつだけはっきりさせておきたいことがある。
なぜ“この人”を推しているのか。誰でもいいわけではない理由について少し書いておきたい。
正直、私の推しより芝居の上手い人や歌が上手い人はたくさんいる。
でも私は、この人にだけ感じる「唯一無二さ」に惹かれた。
想像のつかない言動をする、舞台上の空気の纏い方が他の人と違う。
同じ照明の中に立っているはずなのに、なぜかこの人だけ雰囲気が違って見える。
目を奪われる、というより目が勝手に吸い寄せられる。
舞台のどこにいても、その人が“中心”になってしまうような存在感だった。
技術や上手さでは説明できない。
その人の”存在そのもの”に理由はあった。

なぜ推しを追っているのかの話に戻すと、
私は、死なないために推しを追っている。
“生きるため”というより、”死なないため”に推しを追っている。

私は家から出るのにとても大きな労力がいる。薬を飲まないと外へ出ることができない。飲み忘れた日には、感情という感情がシャットダウンしてしまう。
読んでくれているあなたも、精神疾患がなくとも、日常で嫌なことはないだろうか。
それを忘れることのできる場所が、私にとっては推しであり、劇場だった。それだけのことだったのだ。けれど、それ”だけ”のことが私には必要だった。

死ぬために舞台を観る

「推しを見ていると時間が早く過ぎるな~」と思ったことはないだろうか。
少なくとも私は、家の掃除をしている1時間と、推しの舞台や推しの音楽ライブの1時間は進み方が違うように感じる。
時間が速く進めば、死は近づく。
推しの存在は“時間を早送りにしてくれる存在”である。
つまり私の場合、好きな舞台を観ることで体感として早く死ぬことが目的だ。何も法に触れず、誰にも迷惑をかけずに、人生の体感速度だけを上げられる。
それが私にとってはとても大きい。
だから私は「推しを作る」だとか「推しが欲しい」という言葉が心底嫌いだ。
推しがいないならいない方が幸せだと思う。
「早く死にたい」という感情は人間的に間違っているのだ。
「この間違っている感情を正すために推しがいる」という状況も間違っている。
推しがいることは、私にとっては逃避で、生存のための手段であり、そして体感として人生を短くするためのキカイだ。

「推しがいる」とは

死なないことは生きることだと思う。
それも立派な生きることだと言いたいし、そうであってほしい。
推しを追うことによって私は死んでいない。
けれど同時に、推しを追う時間は体感として私を死へ近づけてもくれる。

矛盾しているようにも見えるだろう。
だから私は簡単に「推し活」という言葉で片付けたくない。
このめちゃくちゃな気持ちを「推し活」という言葉だけで終わらせて良いものではない。そう思う。

推しがいることは幸せじゃない。

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