宝塚ファンはなぜ推しが去っても戻るのか

ライフワークになり得る推し活「宝塚歌劇団」

 宝塚歌劇は今年で創立111周年。兵庫県宝塚市を拠点に、花組・月組・雪組・星組・宙組の5組体制で公演を行なっています。出演者は女性のみで、劇団員数はおよそ400名。宝塚歌劇の舞台に立つには、唯一の養成学校である「宝塚音楽学校」で2年間学ぶ必要があります。男性の役を演じる役者を「男役」、女性の役を演じる役者を「娘役」と呼びますが、全員が入学時にどちらかの役を選択します。宝塚って聞いたことあるけど、よく分からない世界だなぁ、という方は、公式サイトの「5分で分かる!知って楽しむ宝塚歌劇」をのぞいてみると理解がより深まると思います。
 観劇歴12年目の私も、波はあれどチケットの入手が年々難しくなっているのを肌で感じます。「12年」と聞けば、長く見続けているように思われるかもしれませんが私の周りには、胎児の頃から宝塚を聴いてきた人や観劇歴50年以上のマダムなど、猛者が沢山います。こういった宝塚ファンに囲まれると私はむしろ若手だと実感します。推し活が浸透する昨今、もしかしたら「宝塚歌劇団」はライフワークとして続けられる推し活の代表格としておすすめできるかもしれません。

必ず推しが去ってしまう宝塚歌劇団

 では、なぜ宝塚ファンはそんなに長く応援し続けられるのでしょうか?特定のスターを応援しているファンは大勢いますが、宝塚のスター(タカラジェンヌ)の平均在団年数はわずか7〜8年程度。好きになったスターたちは必ず劇団から去っていきます。しかも、宝塚には公式の個人ファンクラブは存在せず、近年主流のSNSやブログによる個人発信も認められていません。接点は非公式の場に少なからずあるものの、ファンがタカラジェンヌについて知る情報の中心は舞台や公式媒体を通じたものに限られます。それでも宝塚歌劇団は111年の間、人気を失わず、新たなファンを生み続けてきました。なぜ推しを失っても、多くのファンが再び宝塚へ戻ってくるのか。その理由を、宝塚の代名詞的な存在である「男役」に注目し、その役を形づくる「男役の型」という観点から今回は私なりに探っていきたいと思います。

推しが去っても宝塚歌劇を見続けた話

 初代の推しが退団したとき、私は大きな衝撃を受けました。「もう宝塚は見られない」と思い、毎月のように通っていた観劇もすっぱり途絶えてしまいました。半年ほどは、公演のチケットを取る気にもなれず、SNSに流れてくるファンが呟く観劇の感想を横目に眺めるだけの日々でした。
 そんなある日、ある公演の評判の良さを耳にして、推しのいないその組に一ミリも興味はなかったものの、作品自体が面白そうだと感じて急遽チケットを入手。軽い気持ちで劇場へ足を運びました。
 舞台を見ていると、とある下級生の姿に目を奪われました。その仕草や雰囲気に、もう舞台にはいないはずの推しの面影を強く感じたのです。後から、その下級生が私の推しを深く尊敬し、常に目標にしていたと知りました。退団してもなお推しが残した「男役の型」が舞台に息づいていることを実感した瞬間、心の底から幸せで、私は再び宝塚の世界に戻ってきたのです。ここでいう「型」とは、代々受け継がれてきた立ち居振る舞いや所作の積み重ねのことです。それは舞台に立つための土台であり、それだけでは完成せず、やがて一人ひとりの表現や姿勢が重なって「個性」が生まれます。この「型と個性の重なり」こそが、宝塚の面白さだと私は考えています。

守破離で見る、男役の型

 私が舞台で推しの面影を感じたのは、偶然ではありません。前の段落で触れたように、宝塚には「男役の型」と呼べるものがあるからです。型とは、男役が舞台に立つ上で欠かせない土台のようなもの。もう少し具体的に言えば、背筋の伸ばし方や歩幅の取り方、声を響かせる方向、さらには視線や一挙手一投足で舞台全体の空気を掌握するような雰囲気づくりまで含まれます。
 この型がどのように受け継がれていくのかを整理すると、日本の芸事にも通じる「守破離」という流れに重ねて考えることができます。

(守)土台を学ぶ:まずタカラジェンヌは、宝塚音楽学校で2年間、舞台人としての基礎を徹底的に学びます。全員が同じ教育を受けることで、舞台に立つための土台が形づくられるのです。

(守)先輩を写す:音楽学校を卒業後すぐに劇団へ入団し、下級生は舞台にも立ちながら、尊敬する上級生のそばでお手伝いをしつつ学んでいきます。その立ち居振る舞いや雰囲気を体に染み込ませていく過程で、観客は下級生の姿に「先輩らしさ」や「面影」を見出すことができます。

(破)個性を重ねる:やがて、型を忠実に守ったうえで、自分だけの表現やニュアンスを加えるようになります。声の響かせ方、目線、間の取り方などを工夫することで、一人ひとりの個性がにじみ出る演技となり、唯一無二の男役像ができ上がっていきます。私が下級生に推しの面影を感じたのも、まさにこの段階であり、模倣から自分らしい表現を生み出し始めている一つの過程だったのです。

(離)次の世代に受け継ぐ:芸事に完成はありませんが、自分なりに築いた男役像を下級生に渡したとき、それはひとつの到達点ともいえます。宝塚ではこの「守破離」が世代を超えて繰り返され、男役の文化が連鎖していくのです。
 つまり宝塚の魅力は、「型」という土台があるからこそ、そこに個性が積み重なり、さらに次の世代へと継承されていく点にあります。この「型と個性の重なり」こそが、宝塚を観る面白さだと私は考えています。

伝統芸能の継承

最近、映画『国宝』を観たのですが、その上映中に何度も宝塚のことを思い起こしていました。歌舞伎も宝塚も、一方の性別だけが舞台に立ち、厳格な「型」を守り続けているという点で共通しています。
 歌舞伎の魅力は、家系を中心とした世襲制にあります。同じ家に生まれた役者が代々同じ役を演じることで、芸の厚みや歴史の継続を体感できる。観客はその連鎖の中に「時間の重み」を味わうことができます。そのうえで、声の響かせ方や間合いなど、細やかな違いに役者ごとの個性がにじみます。
 一方、宝塚には世襲はありません。音楽学校の入学試験を突破した新しい人材だけが舞台に立ち、全員が同じ「型」を学んで受け継ぎます。その共通の土台に、一人ひとりの表現や姿勢が重なり、個性が際立っていきます。
 つまり、歌舞伎も宝塚も「型」と「個性」が重なり合う芸能であり、その交わり方に違いがあるからこそ、それぞれ独自の魅力を放っています。私にとって宝塚ならではの面白さは、共通の型のなかに新しい個性が次々と芽吹き、過去の面影と響き合う瞬間にあります。そして、その瞬間に立ち会いたくて、私は何度でも劇場に戻ってしまうのです。

まとめ

 宝塚は「推し」が必ず舞台を去る場所です。しかし、去ってもなお舞台に残るものがある。それが「型」であり、そこに重ねられる一人ひとりの「個性」です。
 私にとってこの「型」と「個性」は、推しを失った喪失感からも再び立ち上がらせてくれる存在でした。なぜなら、舞台のどこかで必ず、過去の推しの影を感じさせつつ、新しい個性が花開く瞬間に出会えるからです。その瞬間のために、私は何度でも劇場に戻ってしまうのだと思います。
 宝塚を観るとは、ひとりのスターを応援する以上に、世代を超えて受け継がれる「文化の継承」に立ち会うこと。そしてその継承のなかで、毎回まったく新しい煌めきに出会うことなのです。

MOALY TOPへ戻る

このページの上部へ