初めまして。
この度この活動を通して「演劇」について記事を書くことになりました、うしさんです。
「あなたが好きなモノはなんですか」、そう聞かれて真っ先に思いついたのが「演劇」だったけれど、「どこが好きなのか」と聞かれたら言語化することは難しく、ありきたりな言葉しか出てこなくて、大変困りました。
悩みながら書き上げた一本目の今回は、タイトルにもある通り「人の醜さを観に行く観劇」について、お話したいと思います。最近は演劇サークルに入って作る側に回ったりしているのですが、元々観劇が好きで演劇自体に興味を持ち始めました。特に小劇場で上演される小演劇を観に行くことが好きです。(劇場は下北沢にあるシアター711が好き)
なぜ観劇を好きになったのか。役者さんの演技とか、セットとか色々要素はあるけれど、題材が大きな理由なのではないかなと。具体的にどんなところが好きなのか、作品を例に挙げながら深堀っていきたいと思います。
観劇は人の醜さを観に行くものだ
「パラレルワールドより愛をこめて」/ザ・プレイボーイズ
私はザ・プレイボーイズ主宰の善雄善雄さんの書く台本が大好きなのですが、何が良いって日常にある人間の醜さを、日常ではできないやり方で跳ね返してハッピーエンドにする点なんですね。
例えば2024年に上演された「パラレルワールドより愛をこめて」では、他人を犠牲にして自分が利益を得ようとする自己中的な醜さが描かれています。この醜さには誰もが直面したことがあるのではないかと思います。犠牲にする側も、される側も、どちらも。例に漏れず、私もそうです。
この舞台では、主人公のお笑い芸人が売れるために、相方をテレビのお偉いさんに売るシーンがあります。相方からのSOSを無視してお偉いさんの所へ通わせ続けることを選んだ結果、相方はストレスで事故を起こしてしまう事態に。面白いものを作っても見てもらわなきゃ意味がない、そのためには相方に無理強いしてでも権力にすがるしかない。売れることに貪欲な主人公の醜さには、テレビ業界の不祥事が話題になったこの時期に観ると尚更、同情するしかありませんでした。
私も出来ることなら常日頃から周りの人のことを考えて行動したい、発言したいと思っています。でも自分のことでいっぱいいっぱいになってしまう時がどうしてもあって、自分勝手だと思いつつも自分を優先して強い言葉で伝えてしまったり、態度に出してしまったり。そんな私の行動で傍に居てくれている大切な人達を嫌な気持ちにさせてしまって、そんな方法でしか機嫌を保てない自分が嫌いになる。
きっと本作の主人公も必死だったのだと思います。
自分がしてきた選択が間違っているのではないかと葛藤するも、仕方がなかったと開き直る主人公の姿を、分かるよと思いながら観ていました。自分にずっと付いてきてくれた相方を自分の言葉で追い詰めてしまった。開き直りでもしないと、自分の不甲斐なさに耐えられなくて死にたくなる。
そんな主人公に対して、パラレルワールドのもう一人の自分は「俺は天才だ―――!!!」の叫びと共に警察に通報し、自分で自分を正しい道へ引き戻します。なんとも爽快で感情論なハッピーエンド。
普通に考えて、「俺は天才だ!」と思っていても叫ぶことはできないし、叫んでも順風満帆だった環境を捨て、正しさを選べるほど人間は強くないと思います。だけど、この作品に登場する彼らは強い。成功する幸せと周りの人たちと楽しく過ごす幸せを天秤にかけた時、後者を取れる強さがある。そんな彼らを観た帰り道、「私もそうありたい」と思うのです。
「ハロー、妖怪探偵社」/ザ・プレイボーイズ
善雄さん作品をもう一つ、例に挙げたいと思います。
この作品のテーマは「妖怪」で、自分とは異なる人を偏見だけで疎外してしまう人間の醜さを、妖怪で表現しています。
この作品の中で登場するミイラは頭蓋骨を変形させる一般人にはあまりない遺伝子を持っていて、人間ではあるのに妖怪扱いされ、ミイラにされてしまったのだといいます。同じ人間なのに分かり合えない、分かり合おうとしない、そんな登場人物たちを観て、「醜いな」と思いながらも、自分はどうなんだと自分の行動を見つめ直して落ち込んじゃったりして、なんだかぐるぐる負の感情をまといながら物語を追いかけていました。
ラストシーン、優秀な遺伝子以外を排除しようとする科学者を、主人公は叫びながら物理的な力の強さで追い出します。清々しい。最も差別をしてきた人間を力でひれ伏せた。現実ではできない解決の仕方だけど、観ていた私の負の感情まで吹き飛ばしてしまうほどのスカッと感が最高でした。科学者がいなくなった世界で、主人公たちはあなたはそのままで大丈夫なのだと認め合い、みんなで仲良くカレーを囲みます。ほっこりするハッピーエンド、心があったかくなる作品で、大好きです。
私自身、今の社会は分類されやすい世の中だなぁと感じていて。分類されやすいが故に決められた狭い世界の中で、どうにかして居場所を作ろうと取り繕ったり無理したりして適応しようと頑張っていると思うんですよね。ありのままの自分でいるよりもそっちの方が生きやすいし。そんな中で自分と違う世界を持った人と関わるのって怖いし労力がいる事だと思う。だけど、本作の主人公が探偵社にいる個性的で自分とは違う世界の人たちに頼ることを選んだように、一歩踏み出して関わってみたらみんながみんなを認め合える素敵な世界に近づくのかなと、思いました。
「幾度の群青に溺れ」/キ上の空論
善雄さん作品だけだと説得力が足りないかなと思い、もう一つ。
この作品では明言はされていないものの、オウム真理教事件が題材になっています。教祖や幹部にスポットを当て語られることが多い中で、この作品ではサリンと捉えられるものを作り出す人間、信者、外部の人間にもスポットが当てられ、この事件に関係する人たちの心の変化が描かれています。
人の醜い行いによって起こったこの事件は、テレビやニュースで批判的な意見と共に何度も放送されているところを目にします。恐ろしい化学兵器で無差別に人を殺したのだから、悪として語られるのは当然のこと。当然なんだけど、この作品を観て、オウム真理教は確実に誰かの「救い」であったのだと、思わされました。醜さにも救いにもなるなんて、残酷だけど人間らしいなと。
あと作品名は特に出さないですが、演劇では夢追い人がたびたび登場します。
何度持ち込んだって掲載されないのに漫画を描き続けるおじさんだとか、バンドの再結成を夢見る40代バンドマンだとか、就職せずに絵で食っていきたいと思い続ける若者だとか。
大人になっても夢を見続けるのって醜いことだと思われがちで、馬鹿にされたり、現実を見ろと言われたり、扱いが散々で少々心が痛みます。でも、この場合醜いのは夢追い人だけなのかなって思うんです。一つのことにずっと熱中できるのってすごいことじゃないですか。それを応援できない周りは醜くないのかなって。でも私も、実際恋人とか友達とか大切な人がいつまでも現実から目を背けて夢を追っていたら、そろそろ諦めたらって言ってしまうと思う。結局私も醜いのか。
そんな現実にある人間の醜さを、演劇は可視化することによって観客に考える機会を与えているのではないかと考えます。私は色んな演劇作品を観て、きっかけを与えられるたびに考えて、考えて、考えて、この過程が好きなのではないかなと思いました。
可視化されることで、沢山考えることで何かが劇的に変わるわけではないけれど、観劇を通して自分の中にもある醜さを自覚し、受け入れようとすることを繰り返しながら、自分にも他人にも寄り添えるような人間に少しずつでも成長していたいな、と思います。
私は演劇が好きです。ここまで書いてきたように、演劇は日常の中で薄々と感じている人間の醜さを考える機会を与えてくれる。でもそれだけじゃなくて、醜さをエンタメに昇華し、面白さにしてくれる。時に笑って、最後は泣いて、感情を揺さぶられながら、ただただマイナスだった「醜さ」というものが作品に面白さを与えてプラスになっていく。そんな演劇を観るたびに、私は救われているのかもしれないと思いました。
