「これやばい!」
人がそう口に出したとき、私たちはなぜかすぐにその意味を理解できる場合が多い。
すごいという意味なのか、危険という意味なのか、感動したのか…様々な可能性があるはずだ。
それでも、なぜか伝わる。なぜか共感できる。
現代社会は、多様な意味を内包する言葉で溢れている。
“やばい”、“エモい”、“えぐい”などがそうだ。
それらの辞書的な定義は広すぎて捉えどころがない。
例えば、“エモい”。
感情が揺さぶられた時や、気持ちをストレートに表現できない時、懐かしい気持ちや、切なさ、美しさなど、その意味は幅広い。
それだけにとどまらない。“やばい”は、素晴らしい・すごいというポジティブな意味と、危険・不都合な状況の際のネガティブな意味というように、二面性を持つ。
そもそも、ポジティブな意味合いにしても、どう“やばい”のかは、さらに細分化されるうえ、状況によっても異なる。
さらに、なにか特定の意味を示そうとしているわけではない場合も多いということも指摘しておかなければならない。
例えば、人気の映像作品へのやばいは、興奮・感動・衝撃などが合わさって“やばい”のだ。
特に、“エモい”などは、どう表現すればよいのかわからない感情の動きを表現する際に使われるため、その言葉を発している本人すら、その意味するところを認識できていないのではないか。
このように、多義的な言葉たちは、いわゆる現代語・若者言葉と総称され、しばしばネガティブな印象をもたれている。
先日、X上で、以下の投稿が反響を呼んだ。
「このままでは日本が終わってしまう。」
これは、某オーディオメーカーの以下のような広告に対する反応だ。
「言葉にできない、ガチでエモい音」
“ガチ”と“エモい”という二つの現代語を使用した広告である。
この投稿は13万いいねを獲得するなど、大バズりした投稿となっていて、コメント欄は広告に対し否定的な意見で溢れていた。
どういうことかというと、“ガチでエモい”という表現が、語彙力不足であり、深度不足でがっかりなものだというのだ。
私が前回取り上げた、踏み“分ける”と踏み“締める”のように、日本語には表現の機微があり、その奥深さは計り知れないものがある。そのため、美しい表現とは、言語が持つ魅力の結晶となる。
だからこそ、今回の広告に対して、それだよそれ!と唸りたくなるような精緻な表現を求める気持ちも理解できる。
しかし、本当に、この広告は表現力不足なのだろうか。言い換えると、“ガチでエモい”は浅い表現なのだろうか。
私はそうは感じない。
冒頭でも記述したが、現代語は包括的であり、そこには曖昧さが生まれてくる。その曖昧さを、“精巧さが欠けている”と捉えるのではなく、“余韻”と“想像力の幅”と捉えてみることはできないだろうか。
“ガチ”ならどの程度ガチなのか、“エモい”ならばどのようにエモいのか。明確に定義されないからこそ、受け手はそこに自分の物語をより投影できるのではないか。
例えば、夕日を表現する際。
「この切なく紅く燃える、青春のような夕日」と表現するのと、
「この夕日、なんかエモい」と表現するのでは、文章が持つ想像のフィールドの大きさが異なる。
前者では、読み手は書き手の青春時代の枠を自分にはめ、夕日を想像する。一方、後者では、夕日に重ね合わせる記憶は、青春時代に限られない。幼いころの思い出でも、恋人との思い出でも構わない。
夕日に紅く染められるのではなく、その夕日を自分色に染められるのだ。だからこそ、現代語は、曖昧であるにもかかわらず共感を呼びやすいのではないか。
つまり、曖昧な言葉は、“説明を省略して感覚を共有する”ショートカットと言えるだろう。
実際、そのような曖昧語の力は遥か昔から認識され続けてきた。
精緻な表現を好む人の多くが関心を持つであろう古典。
枕草子「春はあけぼの」:「また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光ひかりて行いくも、をかし。雨など降ふるも、をかし」
“をかし”という表現。古典では多用される表現だ。
この表現は、風情がある・興味深い・優美だ・滑稽だ・異様だなどいくつもの意味を持つ。これらの意味は、完全に相反ものでもなく、完全に一致するものでもない。数学のベン図のように、一部では重なり合いつつも、異なるものなのだ。
このような、曖昧さ=多義性があるからこそ、自然の風景を見て、得も言われぬ複雑で霞んだ感情を色鮮やかに言い表せるのではないか。
古典単語を学ぶと、現代の感覚では信じられないほどの多義性を持つ単語に多く出会う。
「あはれ」「ゆかし」「かなし」「あく」などなど挙げればきりがない。
つまり、曖昧語は、現代社会の潮流により、言語が衰退した結果生まれたものではなく、遥か昔から脈絡と続いてきた、表現の流れであることがわかる。
古典の曖昧語と現代の曖昧語は、表す意味こそ違えど、そこには共通点があるだろう。
それは、心や感情に衝撃が走った感覚を表現するという点ではないだろうか。
そのような、言葉にできないような感情を、共感を得ながら表すという力を持つ言葉は、むしろ言語の究極体ですらあるかもしれない。
表現の粋を集めた精巧な表現には、機械式腕時計のような美しさがある。
一方で、想像の幅を持たせた表現には、大草原で風が吹き抜けるような心地よい美しさがある。
美しい表現とは何なのか。そのような問いが生まれてくる。
「言葉にできない、ガチでエモい音」
これは、人それぞれの人生の場面ばめんで奏でられる多様な音のすべてを、開放的に煌びやかに表現するものであるだろう。
