この記事は、私が学生編集部として活動してきた中で、一つの結論に至るまでの記録だ。
学生編集部とは、私たち学生が自分の「好きなこと」を探求し、その中で見つかった大切なことを記事として社会に発信する場である。
マイナビのメンターの皆さんが、私たちの活動を手助けしてくれる。
1. あなたの好きなものを3つ挙げてください。
2. その中から一つ選んで、その理由について語ってください。
というのが、学生編集部員への最初の質問だった。私はこう回答した
1. 写真撮影、KPOP、読書
2. 写真撮影:自分の面白いと思ったことを、そのまま誰かに伝えられるから。
メンターMさん:「なんでそれをほかの人に伝えたいの?」
私:「なんで…?」
これが、私が今ぶちあたっている、最初の壁だ。
写真撮影という趣味は、私が中学生のときに獲得したもの。それから、約5年間のうちにしてきた自己紹介でほぼ毎回口に出してきた、「趣味は写真を撮ることです」という言葉が、揺らぎ始めた。
なんでもなにも、ないでしょう!!!!
はじめての反抗心が芽生えた。でも、そもそも「好きの理由」を探すことを諦めれば、記事を書くことは難しい。ちゃんと向き合わなくてはいけない。
じゃあ、一体何が「面白いと思ったことを誰かに伝えたい」理由なんだろう。
もしかして、「何を面白いと思うか」って、「センス」という言葉に置き換えられないだろうか??
それってつまり…
「自分のセンスを誰かに見せたい」ってことで、
他の言葉だと、もしかして…
「自分のことを自慢したい」ってこと!?
すっごい恥ずかしいことに気づいてしまった。
考えてみれば、私の写真撮影という趣味は、撮った写真をインスタのサブ垢にあげる、というところまでがセットだった。自分のスマホフォルダの中にある写真を見返すより、投稿についた友達のコメントを見ることを楽しんでいる気がする…。「写真上手だね」待ちな気がしてくる…。
純粋な「好き」の気持ちも確かにある。でも、もしかしたらそれとは別に、「好き」な自分を自慢したい、ちょっと下心な部分もあるのかもしれない。
恥ずかしさに見舞われた私は、共感者を求めると同時に、「自慢したい」という感情をさらに深堀りしていくため、学生編集部の仲間にアンケートを取ることにした。
編集部員のみんなとメンターの皆さんに、「こっそり自慢を教えてください」という題名でアンケートをとり、「自慢」の中にあるものについて探ってみようとした。「こっそり」というワードを入れたのは、私が「好き」というワードで「自慢」という自分の感情を隠した(のかもしれない)という考察の元、「人には大々的に話していないけど」自慢したいことを集めたいと考えたから。
質問項目は以下。
1. こっそり自慢したいと思っていることはありますか?それはなんですか?
2. なぜ自慢したいと思いますか?
自慢したいことがない人には…
1. 普段、こっそり自己満していることを教えてください。
2. その自己満を、誰かに見せたい、共有したいと思いますか?
予想はしていたけど、回答は十人十色。規則性はすぐには見つからない。
夜にキャンドルをつけて一人時間を楽しむ、自分だけが知っている美味しいご飯屋さん…などなど。
しかし、「自慢」の理由として挙げられた言葉の中に、「人と違う」「ほかの人は○○だけど~」「ほかの人と比べて」というような、相対的な評価をしているワードが多くあることに気づいた。
もしこれが共通の法則であるなら、私は一体、「写真撮影」の何に「人と違う」ことを感じているのだろう。
逡巡しながら、なんとなく自分の写真ホルダを眺めていると、旅行中の写真や食べ物の写真は少ないということに気づいた。これは、「ほかの人と違う」要素なのでは…?
「ほかの人ならわざわざ撮らない」ものに対して、カメラを向ける自分。
もしかしたら、写真を使って、そんな自分自身をとらえたいのかもしれない。
ここまでが、今まで何気なく口に出していた「写真撮影」という趣味が、「ほかの人と比べて」ユニークでいるためのものだった、という発見をするまでの記録だ。
「ほかの人と比べてユニークでいたい」という願望は、なんかちょっと、かっこわるいような気がして、正直認めたくなさすぎる。
そもそも「ほかの人と比べて」なんて、「ありのままの自分でいる」ことがスタンダードな今にそぐわない価値観とも言えるし…。
けれど、なんとか結論は出た。
私は、写真撮影を、「ほかの人と比べる」対象として使って、自分の価値やユニークさを高めようとしている。
そう、私は自分のことを「ユニーク」でないと思っている。
誰かと強くぶつかったり、先生にひどく叱られたり、なにか一つのことがとび抜けてできるわけじゃない。「ユニーク」と言える経験はしていないと思う。
じゃあなぜ、自分のユニークさを高める手段が「写真撮影」なんだろう。
先にも書いたが、「ほかの人と比べる」という目的を自分の趣味に見出した時、とても恥ずかしかった。そして同時に、「違和感」のようなものを抱いているのだ。この「違和感」について、もう少し掘り下げていきたい。
他者との比較の中心にある願望は、「ほかの人より優れている」ことを証明することだろう。
でもその願望が、自分の気持ちとは、どうも違うような気がするのだ。
私は、自分が投稿した写真について、誰かが感想を言ってくれることがうれしい。
それはただ単に褒め言葉じゃなくてもいい。疑問や質問だってうれしい。
自分の部屋のカーテンに見つけた穴を撮って見せたとき、「なんでただのカーテンの写真撮ったの?」と質問されてもうれしい。
リノリウムに反射した空の写真に対して、空に気づいてもらえず、「なんで床???」と言われても、うれしい。
面白い、見せたいと思った世界が、ほかの人の目にどんな風に映るのか、知りたい。
自分の価値観を表現するツールとしての写真。
それに対する他の人の感想。
そこから得られる、自分の価値観への再定義。
自分と他の人との距離感を確かめながら、自分の価値観をより立体的に、より鮮やかにしたい。
そんな願望が、私の中にあるのかもしれない。
ユニークじゃない自分は、写真撮影を介して、ユニークさを造り上げている途中なのかもしれない。
自分の見える世界にカメラを向けて、それをシェアする。ほかの人にどんな風に見えるかを知る。
この一枚が、私の知らない私に出会わせてくれる、そんな風に期待を込めて、私はこれからも、シャッターを切っていくのだと思う。