自分の普通とは
自分の普通とは何だろうか。
そう考えたときに、頭の中には色々な答えが思い浮かんだ。
英語は大事、とか。規律を守ることが当たり前、とか。
しかし自分に一番強く結びつくものは物や決まりなど目に見えることではなく、価値観に関わることだと考えた。よって、私が一番向き合うべき自分の普通はこれだ。
「人に答えを求めること。」
人が自分の求める答えを持っていると思い込み。今まで考えていた以上に、私は世の中に絶対的な答えがあると思っていた。ババ抜きのジョーカーみたいに、他人が持っているカードを選んでいけば、最終的にはジョーカーとなるような答えにたどり着くと思っていた。誰もが避けようとする醜い、絶対的な価値を持つ象徴ともいえるジョーカーを私は追い求めていた。
答えを求める理由
人に答えを求めるというと他人よがりに聞こえてしまうかもしれないが、少し見方を変えるとこれは読者の皆さんもきっと経験があることだと思う。Chat GPTを利用したことはあるだろうか。野村総合研究所が発表した2024年9月時点での日本のChat GPT利用動向によると、認知率と利用率は共に上昇傾向にあり、年齢層も女性若年層へと伸びている。
一方で、不安や懸念点として「回答が不正確な場合があること」や「AIに頼って自分で考えなくなること」などが挙げられている。誰もが迅速に正確な答えを手に入れたいと思う事はあるはずだ。しかしなぜそう思ってしまうのかについて考えたことはあるだろうか。言語化してみたことはあるだろうか。答えを探す背景には大衆的な傾向やChat GPTという新しい技術の台頭より色濃く、多様で根本的な原因があると考える。
私が答えを求めてしまうようになった理由の一つは、ディベートだ。ディベートというと口論と勘違いされることが多いが、実際は与えられたお題に対して肯定側と否定側に分かれ、最終的に議論の勝敗を決めるのは第三者の審判である。(互いを言い負かしても競技としてのディベートには何の意味もない。)
熱意をもったチームメートに恵まれた私は、ディベートという競技に夢中になった。そして競技の魅力の一つが、試合後に審判によって下される勝敗だ。せっかくやるなら勝ちたい。その一心で私は試合に勝てる方法を考えた。そして行きついたのが「納得」だった。
どれだけ審判に「納得」してもらえるか。納得してもらえる議論を組み立てるためには当時の私は知識も経験も足りなかった。もちろん、1人で全てをまかなうことは推奨されていない。ディベートはチーム戦であり、2、3人のチームで戦うという点にこそ競技の醍醐味がある。
力を合わせて戦うことで、人数分の知識と経験で勝負ができる。チームとコミュニケーションを密にとることで、私は試合に勝つ回数が増えた。しかし試合を重ねるごとに、私は自分が1人で出す答えに自信を持つことができなくなっていった。
この答えは果たして審判に「納得」してもらえるのか。チームとして発表するからには、そもそもチームメートに「納得」してもらえるのか。試合時にはその場でチームメートに聞き、修正することで不安を解消できたのであまり大きな問題にはならなかった。しかし、自分が出す答えに自信を持てないという感覚は競技をやめた後も強く残った。私にとって答えを求めるという行為は、他人に納得してもらいたいという経験に基づく願望の表れなのだ。
ジョーカーはどこ?
取材を始めたとき、私は仮説という手持ちのカードを用意した。国際的なキャリアに必要であろう「語学力」「情報収集能力」「現地の歴史・経済・政治的背景の理解」「修士号・実務経験」「異文化理解能力」という5枚のカードを持っていて、それを一枚ずつ交換していけばジョーカーと交換してくれる人が現れるのではないかと期待していた。「これだ!」という国際的なキャリアに必要な力であったり、価値観を知ることができると思っていた。
しかし、取材を重ねていくうちに2つの違和感が拭えなくなった。
取材の中で覚えた違和感
一つ目に、なかなかジョーカーに巡り合うことができなかった。取材に協力してくださる方たちは、自分の仮定に賛同してくださった。確かに必要だ、国際的なキャリアの前提となるとおっしゃった。しかし、仮定と引き換えに私が引くカードはどれもその方たちにとってユニークなエピソードであり、どれも私には真似のできないものばかりだった。
環境が変化することを恐れず、5回転職して自分の貢献できる国際機関で輝き続けている方や、商社での経験を活かした空中戦を繰り広げている方など、お話を伺えば伺うほど自分から憧れのキャリアが遠ざかっていく気がした。自分が求めるジョーカーがあるのか、わからなくなってしまった。
二つ目に、自分の手持ちのカードを信じることができなくなっていった。初めに自分の立てた仮説に価値を見出すことができなくなっていたのだ。持論だが、そもそも反論や否定をされない仮説に価値はない。それはただ「当たり前」を述べているだけだ。もしかすると、今まで私は国際的なキャリアを積まれている方々にごく当たり前なことを述べて、賛同を求めていたのではないか。そう考えるととても恥ずかしくなった。
取材をしているときは仮説が答えにたどり着くカードだと信じていたし、検証したいと思っていた。しかし取材を重ねていくうちにそれを検証したいという気持ちから確認したいという気持ちに変わり、最終的には私が求めていたジョーカーはこの仮説からでは導き出せないという結論に至った。
そんな中、衝撃な一言に出会った。
「人に聞いてやるものではない」
「私はこれから何をすればよいのでしょうか。」 取材中に思わず出た、弱音であり一番の本音だった。それに対して否定するでもなく、批判するでもなく、ビシッと活を入れてもらった一言だった。
頭より身体が先に反応する経験はおありだろうか。私はこのときが初めてだった。気づけば、一筋、また一筋と涙がこぼれていた。取材中なのに、こちらが泣くのは場違いなのに、あふれる涙は止まらなかった。
あふれた感情を言葉に落とし込めたのは取材が終わり、落ち着いて振り返る時間を設けたときだった。思わずこぼれた弱音に対して自分が思うような答えが返ってこなかったどころか、どこか慰めてもらえると思っていた甘い自分に対する情けなさがこみあげてきた結果の涙だった。
ジョーカーはいなかった
「人は、自分が大切にしている価値観を侵されたとき、感情が強く揺れ動くと言われています。泣いたり怒ったりなど感情が激しく揺さぶられる時は、自分が大切にしている価値観を再認識するチャンスでもあるのです。」
以前取材に協力いただいた国際ビジネスコミュニケーション協会の山崎さんにお話しいただいた。まさに、私の感情は動いていた。では改めて、私のコンフォートゾーン、私の中での普通とは。
「人に答えを求めること。」
そして、私はそのコンフォートゾーンから出たいと思っていたからこそ、それを否定されたときに否定をした相手ではなく、それを普通としてきた自分に対してやるせなさを感じたのだ。
再出発
細く鋭い針のような一言から自覚した私の「普通」を言語化していく過程で、私と普通の関係は今もなお変化している。涙を流した瞬間には確実にあった自分に対する嫌悪感が、少しずつ和らいでいるのを感じる。前述していた自分と相手という対立軸以外にも「人に答えを求める」という価値観との向き合い方があるかもしれない。
私が「人に答えを求める」背景には、喜怒哀楽が詰まった大切な経験や将来に対する漠然とした不安などがある。私はこの価値観を否定的には捉えていない。ディベートを通じて得た納得してもらうことへの執着や答えを検証し合える仲間は、何物にも変えがたい大切な財産だ。
前回の記事執筆を通じて、「選択肢を創る人間としての心構え」を手に入れるために、私は自分にとっての「普通」を考え始めた。この価値観の捉え方が変わりつつある。私の興味の対象は与えられたもの中から何を選ぶかや、自ら提示することではなく、その選択肢があることの意義を理解することかもしれない。
人は変わる。価値観ではなく自分の捉え方に変化が生じることがある。
皆さんもこの機会に自分を形作った大切な記憶をもう一度思い起こしてみてはいかがだろうか。
森健, 林裕之.「日本のChatGPT利用動向(2024年9月時点)~男性中高年層や女性若年層へ利用が広がる~」. 株式会社野村総合研究所.
https://www.nri.com/jp/knowledge/report/20241016_1.html , (参照 2025-03-01).