なぜ人は旅だと寛容になれるのか

私は旅が好きだ。

でも、異国の地に降り立って、いつもきまって一番はじめにやってくるのは不快感だ。

鼻を突くような嗅いだことのないニオイに、耳慣れない音楽。やたらと大きな声で発せられる声は見知らぬ記号のようだし、せわしなく宙を漂う視線たちは獲物を狩るハンターの様にも思える。まるで、自分だけが別次元に取り残されているかのような、疎外感。

なぜだろう、私はこの不快感がたまらなく好きなのだ。

時間通りなんて言葉は多分存在していない交通機関も、己が秩序だといわんばかりの道行く人の傲慢な態度も。

違和感だらけ、未知で埋め尽くされた空間に居ることにどこか気持ちよさを感じている気さえする。

先日インドネシアを訪れた時のこと、私と友人はとんだハプニングに見舞われていた。

長時間のフライトを終えた私たちは、早々に身体を休めるためあらかじめ予約しておいた駅近くのホテルに足早に向かった。

「ああ、詐欺だ。」

そう気づいた時にはもう遅かった。

必死に支払い済みであることを証明しても「申し訳ございません」の一点張り。自分たちの責任じゃないんだから、面倒くさいことを増やしてくれるなという気持ちが、言語が違っていても十分にわかるような態度だった。

さらに運の悪いことに、イスラムのお祭りがあるとかなんだとかで、各地からイスラム教徒がこの地に集結していたことも重なり、近隣のホテルはどこも満室だ。

野宿?いや、さすがにそれは無理。危ないし、外は信じられないくらい暑い。

ぐるぐると思考を巡らせるものの、どうしようもない、別のホテルを探すほか、自分たちに取れる選択肢は見つけられなかった。

だけど不思議なことに、困惑こそしたものの、特に怒りも悲しみも湧いてはこず、なんなら当たり前のことのように目の前の惨事を受け止めている自分がいた。

どうにか空いている宿を見つけ、来たタクシーに乗って次なる目的地に向かった。

身体に見合わない大きなバックパックを背負った異国の若者に情が湧いたのだろうか、タクシーの運転手とも仲良くなれて道中は楽しく過ごすことができた。

宿に到着するや否や、運転手の表情が少し曇ったように感じた。

少し待っていてと合図し、先に宿の様子を確認しに行ってくれた。

「だめだ。他の場所を探したほうがいい。」

戻ってくるなり彼はそう告げた。彼の不安げな表情を見ても、宿の状態は最悪だということはすぐにわかった。

でも、もう無理だった。疲労はピークだったし、次を探したところで見つかる保証もない。彼の不安げな表情に気づかないふりをして、とりあえず宿の前まで連れて行ってもらうことにした。

着いた瞬間に思ったのは、「なんだ、普通の家じゃん!」だった。

確かにちょっと劣化が気になる部分は多いけど、この国では割とスタンダードな造りの建物にも思えた。運転手の彼に指でOKサインを作り、気力を振り絞って精一杯の笑顔で感謝を伝えた。

でも、彼は不安げな表情のまま私たちの傍から離れなかった。

「え?まって、何これ!?」

先に宿の中に入った友人声を上げた。最初のハプニングを同じテンションで受け止めてきた友人だ、たいていのことには動じないはず。

急いで私も中に入ると、そこには、なんと、人が「住んで」いた。

周囲の部屋より少し低く作られた広間で、薄暗い照明の中、机の上に無造作にのせられた果物を淡々と食べていた。

私たちのことなんて気にかけていない、いや、もう空気だと思ってるんじゃないかくらいの勢いで、極めて普通に、自分たちの日常を過ごしていた。

でも、正直一番びっくりしたのは自分に対してだった。

「まあ、こんなこともあるか」と思い、早々に自分の寝床の準備を始める気になっていたからだ。もちろん一瞬戸惑ったけれど、こんなに自分が寛容でいられるなんて。しかも立て続けに。

荷ほどきを始めたわたしたちを見るタクシーの運転手の困惑した表情も、今となってはいい思い出のひとつだ。(心配してくれてありがとう)

旅は、たびたび、こうした「寛容なわたし」に出会わせてくれる。

どうして旅では寛容になれるんだろう。

ここでようやくタイトルを回収するわけだけど、自分のエピソードはそこそこパンチがありすぎる気もする。

この疑問を紐解いていくにあたり、身の回りの旅好きの人たちにアンケートをとってみることにした。

「あなたの旅にまつわる“印象的な”エピソードを教えてください」という問いには、実にさまざまな「ハプニング」が寄せられた。

・アイランドホッピング中に海を泳いでいたら大津波が向かってきた話
・旅行中に家族全員がインフルエンザになった話
・帰りの空港で彼氏と別れた話

遭遇している内容も気になるところだけど、それ以上に印象的だったのは、このハプニングを皆どこか寛容に受け止めていたこと。

旅は、極端に言うと、自分の日常の枠から飛び出る行為だ。それが未知なる場所であればあるほど、日常からの距離は離れていく。

日常の私は正直、寛容な人間とは言えない。

でも何故だろう。日常生活で起こる想定外の変化にはストレスを感じるのに、旅でのハプニングにはとても寛容でいられるのだ。

時間通りに、礼儀正しく、他人に迷惑をかけずに、秩序正しく。
そう小さい頃から教わってきた。そしてそれが正しいと信じてきた。
でも、どこかそんな自分を残念に思う気持ちもある。

“正しくあること”がマジョリティである日本で、いつの間にか自分もその一部になっていることが悲しかった。

どんな時でも、笑顔を絶やさないような寛容な人になりたい。

異国で感じる「私はわたし」という振る舞い、自由の責任をカジュアルに、でもシビアに引き受けるその生き様が、私にとっては眩しかった。

私は新しい土地で自分じゃない自分になりたかったのかもしれない。あるいは、非日常な暮らしの中で寛容な自分を演じることを、日常の自分に対する免罪符としていたのだろうか。

きっと、どっちも正解だ。

旅は、「自分の中には、寛容になれるわたしがいる」ということを教えてくれる。

それは、日常では目をそらしたくなるような、でもそればかり見つめてしまうような自分の汚い部分を、わたしの中に共存することを許せるようになる救いだ。

私が一番私らしくいられる心強い友達、味方、武器。それが私にとっての旅。だから私は旅が好きだ。

私とは違う形かもしれないけれど、日常(いつも)とは違う自分になりたい、と思う人はいるんじゃないだろうか。

そんな人には、旅をおすすめしたい。

未知なる場所は、未知なる自分と出会う場所。

いつもより気持ちを緩めて、自分を許して、起こることすべてを吸収する気持ちで「寛容に」旅をまるっと楽しんでみてほしい。

「案外自分は捨てたもんじゃない」そんな自分の可能性に、気づけるはずだから。

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