メディアが、特にインターネットがお好きなあなたへ。一緒に冷笑を抜け出しませんか?
「おもしろい」で繋がれないSNS
冷笑って何?
そもそも「冷笑」という言葉をご存じだろうか。正確には、インターネットにおける冷笑をご存じだろうか。 この記事を読んでくれている方はすでにご存じの方も多いと思うが一度確認させていただきたい。
冷笑【れいしょう】あざわらうこと。さげすみ笑うこと。(広辞苑より)
しかし、こと最近のインターネットにおける冷笑とは、言葉からのイメージよりももっと複雑で暗がりにいる気がしている。
試しにXで「冷笑」というワードを検索してみると、実に多様なジャンルへ「冷笑」がされていることがよくわかる。いくつかキーワードだけを拾うと、「女オタクのファッション」「大学生のノリ」「教養をひけらかすやつ」「二次創作」「彼女いる男」etc.
何もかもに対して誰かしらが冷笑をしているような気さえしてくるほど、あまたの物事にこの現象は巻き起こっているようだ。
インターネットって…
だがもとからインターネットが平和な場所だったかと思えば、平和です!!と言い切ることはなかなか難しそうだ。 だけれど、平和ではないからこその良さみたいなものも、数世代離れた私も感じ取ることが出来る。
インターネットが大好きな人たちは場所を変えながら、常に「何か」について話している。場所は2ちゃんねるだったりニコニコ動画だったり、Yahoo!知恵袋だったりYouTubeだったり…そして我らがTwitter(悲しいことに、今はXだが)だったりするわけだ。だけどずっと、冷笑に似たような現象というのは起こり続けている気がする。未熟なものをもはや面白い、としてミーム化するようなものが例だ。
例えば、「自称公式歌い手で話題の人にMIXしろって言われた歌をMIXしてみたww」というニコニコの動画である。これは『アスノヨゾラ哨戒班』という曲を歌っていたニコニコ公式の歌い手の歌唱が話題になったことからはじまったのだが、その歌い手をフォローした主(投稿者)がMIX師と勘違いされてしまったために、この動画が生まれた。聞いていただければわかると思うが、もとの歌唱は素晴らしいとは言えないだろう。だがこの元動画には弾幕と言われる、固定のコメントを大量投下する文化があるのだが、一定の場面で弾幕が現れる。物は未熟だし、馬鹿にする気持ちがある人もたくさんいるはずなのに、弾幕が生まれるほど多くの人が閲覧し、ミームと化している。そしてなぜか冷たい感じがしない。今の冷笑文化とは何か違うものを何か感じてしまうのである。
今起こっている『冷笑』ってなんなんだ!!
先ほど挙げたような一昔前のインターネットにおける「笑い」は、なぜ冷笑とは違うと思うのだろう。
少し前のインターネットにおける「笑い」には、開き直りがあるような気がする。少し前はもっとインターネットユーザー(先ほど挙げたような場所を使っているような人たち)に対して冷たい目が向けられていた。だけどそれでもいい、という潔さがあった。それは身内ネタかもしれないし、気持ち悪いかもしれないけど、でも面白いからいいじゃないか!という、最低とも最高ともいえるマインドがあるような気がする。だからこそ私は平成インターネットがうらやましいと思うことが多々ある。
だけど今起こっている「笑い」には、この面白いからいいじゃないか!というマインドがないのではないだろうか。あえて言うなら身内ノリだったり気持ち悪かったりして、面白くなくない?という、昔とは逆のマインドが今のインターネットにはびこっているような気がするのだ。
そこにはきっと、自分も本当はしてみたいという嫉妬的気持ちや、過去自分がやったからわかるけどそれはまずいよという謎の先輩面など、様々な気持ちが渦巻いてはいると思うが、いずれにせよそういう面白くないと思うものを自分が的確に指摘しているでしょう?という人が連鎖して、冷笑文化になっていったのかもしれない。
だから自分がしてきたこと(例:二次創作をしてきたから、未熟な二次創作を冷笑してしまう)に対しても、自分がしてないこと(例:自分が彼女いないから、彼女のいる同性のファッションやマインドに対して冷笑)に対しても、冷笑がされているのではないか。そしてそういう、批判ができるという客観性を持っているような感じが妙に冷たい。実際には全然客観的ではないのに。
つまり、面白いからいいじゃない!から、面白くなくない?で繋がろうとする人が増えてしまったのではないかと自分の中で仮定した。
冷笑を抜け出そう
ただ私も冷笑の気持ちが湧き上がってしまうことがある。だけど自分だって今自分が冷笑しそうなことを死ぬほどしてきた。どちらかというと、先ほどの先輩面マインドの冷笑が起きやすい。そう考えると、すでに育った大人はいいとして、今を生きる青少年がインターネットの大人たちに冷たく笑われたらどうなってしまうのか。自分を客観的にみることが出来るようになる、それはいいことかもしれない。だけど客観視するという考え方が何に対しても付きまとうようになってしまったら、好きだ!というものに熱中する自分を客観的にみてしまう自分が生まれて、それはきっと好きという熱を冷ましてしまうだろう。それは良くないし悲しいことだ。
客観的に見る機会はインターネットじゃなくても訪れるのだから、個人が個人として自由なインターネットでくらいは、面白いで繋がりたい。
具体的にどうすればいいのか、私なりに考えてみたが、もうとにかく自分が好きなものを好きだと言ってみることからしか始まらないと思う。どうせ今の青少年が見るなら、自分の好きなコンテンツに対してアツい大人を見ていくべきだと思うし、他人の好きなものに対してどうこういうのもインターネット文化ではあると思うが、その前に自分は何がどうしてすきなのか、それをアツく語れないとダメなのではないかと思う。そういう気持ちで、その理由を聞いて人と人がもし繋がれたら面白いで繋がれるのではないだろうか。
一本目の記事を書くときも、文学が好きだし面白い!だからもっとみんな読みませんか!?なんて書くのは好きなはずなのにすこし恥ずかしかった。けれど書ききったとき、なんだかいい気持ちになった。だからこれからの活動での宣言としても、私は二本目にこの思いを載せたかった。私も好きを好きだということから明るい気持ちを取り戻し、この冷たさを吹き飛ばしていきたいと強く思う。
どうせ現実社会では客観的に何かせざるを得ないのだから、インターネットでくらいもっとアツく、もっと気持ち悪くいこうではないか。
私も含め、冷笑してしまうすべての人が自由になれますように!!!
