グローバル社会と日本企業
貿易摩擦とバブル景気の到来

1973年12月から1991年2月までの17年3カ月、日本は「安定成長期」と呼ばれる時代を迎えます。高度経済成長期は幕を閉じ、年平均5%と安定的な経済成長を続ける時期が続きました。電気製品や自動車、半導体などのメーカーが海外に進出し、輸出を拡大。グローバル化が一気に進みました。しかし、輸出量があまりに拡大したため、貿易相手国との輸出・輸入量のバランスが崩れ、欧米との貿易摩擦が問題視されるようになりました。
そのような中、ニューヨークに先進国5カ国が集まってある会議が行われました。当時、ドル高円安が急速に進んでいたことに危機感を覚えたアメリカが、イギリス、西ドイツ、フランス、日本に呼びかけ、「為替レートをドル安に進めること」で合意したのです。この会合はプラザホテルで行われたことから、「プラザ合意」と呼ばれました。
「プラザ合意」は国際経済に大きな影響を与えました。日本では「円高不況」と呼ばれる深刻な不況を生み出し、国内の輸出産業やメーカーの競争力が落ちてしまったのです。この状況を打破するために日本政府が行った施策が、「公定歩合の引き下げ」です。公定歩合とは、中央銀行が金融機関に貸し出しを行う際に適用される「基準金利」のこと。当時、計5回に分けて実施された引き下げにより、公定歩合は戦後最低の2.5%になりました。
公定歩合の引き下げは資金調達が容易になったことを意味します。つまり企業にとっては、「融資を受けやすい」というメリットがあります。実際、融資を受けて設備投資や事業拡大を進める企業が急増し、日本経済は一気に上向きになりました。さらに、国内外の企業や投資機関が日本の不動産や株式を購入したことで、資産価値が高騰。土地が値上がった分を担保に融資ができるため、金融機関の融資額はさらにふくらんでいき、「バブル景気」が起こりました。
しかし、日本の不動産や株式への投資が過剰に活発になったことで、日本の資産価値は実体経済では説明がつかないほどに高騰してしまいました。1989年12月29日、日経平均は史上最高値である3万8915円をつけた後、急速に低下。バブル景気は崩壊の時期を迎えました。
「失われた20年」と呼ばれた日本経済
バブル景気が崩壊した1991年以降の20年間、日本の景気は低迷を続け、後に「失われた20年」と呼ばれるようになりました。日本の地価や株価は下がり続け、1998年末にはマイナス1200兆円もの値下がりをつけました。バブル景気時に融資を受けた企業の返済が滞り、金融機関が貸し付けた金額を回収できなくなるケースが増えました。つまり、回収できない貸出金を多額に抱えていたため、「新たに優良企業に融資をしたくても融資できない」という状態が起こりました。そのため、金融機関の経営が悪化し、一部の大手証券会社や都市銀行が破綻してしまいました。
もちろん、破綻を逃れ、たくましく成長を遂げた金融機関も数多く存在します。金融機関の再編・統合によって生き残ったのです。都市銀行は、再編・統合により13行から4行に。また、1998年に金融持株会社の設立が解禁されたことにより、銀行や証券会社、保険会社等の事業会社を持つ巨大金融グループが次々に誕生。こうして、複数の金融機関が手を結ぶことによって、金融危機を乗り越えていったのです。
また、バブル景気の崩壊と共に、円高も進みました。円高による日本経済への影響としては、価格の安い輸入品が国内に流入したことが挙げられます。ディスカウントショップなどが次々と生まれ、安い海外産のメーカー品を購入する消費者が増えました。国内のメーカーは値下げをせざるを得ない状況に陥り、苦しい経営状況に陥りました。
景気低迷が続く中、どの業界においても「コスト削減」が大きな課題となりました。特に人件費が圧迫している企業が多く、雇用形態を検討する企業が急増。正規社員の雇用を控え、パートやアルバイト、派遣社員などの採用が高まりました。そして、正社員の採用を控える企業が増えたことから、失業率がどんどん高まっていきました。新卒採用においても同様で、「就職氷河期」と呼ばれるほどの状況に陥りました。
また、勤続年数や年齢などに応じて役職や賃金が上昇していく「年金序列」の人事制度を撤廃し、実力主義を打ち出す企業も増えました。「大学卒業後、最初に就職した企業で一生涯勤め上げる」といった日本企業独自の価値観が崩れ始めたのです。
バブル崩壊後に誕生した企業に見る「日本企業のあるべき姿」
では、バブル崩壊後の20年は、日本企業にとって本当に「失われた20年」だったのでしょうか。
確かにこの期間、日本は長期デフレが続き、経済は低迷を極めました。けれど、そのような中、誕生した企業もあります。例えば、新しいビジネスモデルをひっさげて躍進を遂げたベンチャー企業。特にインターネットの普及により生まれた企業の台頭は目覚ましく、誰もが知る一大企業へと成長したケースも珍しくありません。雇用が減り、リストラによって職を失う人もいましたが、一方では新たに立ち上げたビジネスを軌道に乗せるため、新たな人材を欲する企業も存在しました。「失われた20年」は、決して無駄な時期ではなかったのです。
国の施策も、企業の誕生や成長を後押ししました。前述の「金融持株会社の設立解禁」はその一例です。そのほかの例としては、商法改正(会社法の施行)により、資本金の条件が取り払われたことがあります。それまでは、株式会社を設立するには1000万円以上の資本金が必要でしたが、0円でも会社を設立できるようになりました。
企業の合併も可能になりました。独占禁止法によって企業合併が規制されていましたが、1990年代より規制が緩和され、大規模な企業同士の合併が進みました。また、規制緩和によって、利益を生み出さない事業を売却して経営状況を改善することも可能になり、経営が危うくなった企業には企業再建の道が開かれました。
2015年4月22日、日経平均株価はITバブル以降初の2万円超えを達成しました。その背景には、安倍内閣が打ち出した経済政策「アベノミクス」があります。皆さんもご存じの通り、「アベノミクス」は「三本の矢」と呼ばれる戦略を打ち出しており、民間企業に対して規制緩和を図りながら日本経済の持続的成長を目指しました。
「失われた20年」は、日本企業にとって大きな痛手だったかもしれません。しかし、日本企業の歴史を紐解けば、どの時代においても日本の企業はその時代特有のニーズをキャッチし、その時代に即した方法で臨機応変に目の前の問題と向き合ってきたことに気づくことでしょう。人口減少が進む日本の未来を憂う人もいますが、最近でいうと、新型コロナ感染症が広まるまでは、外国人観光客が増え、日本産の製品の売れ行きが好調でした。一方、コロナ禍ではそのようなインバウンド需要は減ったものの、
動画配信サービスやネットショッピングなどのニーズが増加しました。このような新たな需要の誕生をビジネスチャンスととらえ、利益を拡大している企業も多数存在します。
そして、世界的な視点で日本の企業をとらえたとき、日本企業ならでの価値観が消え去ることなく、今も存在していることに気づくでしょう。例えば、新卒採用に力を入れ、教育・研修制度やキャリアパスの充実化を図っていること。従業の成長を支援し、「すぐに辞めるのではなく、長く勤めてほしい」と願っていること。バブル崩壊により、終身雇用制度は崩壊したかに見られますが、今も日本企業の「人材を大切に育てていく風土」は健在しているのです。
まとめ
アベノミクスの効果で日本経済は立ち直りを見せていましたが、突如コロナ禍に見舞われたように、過去にも何度も大規模な経済危機・金融危機が訪れてきました。そしてこれから先も経済的困難が立ちはだかることが考えられます。しかし、どのような困難に陥ったとしても、日本の企業はそれを乗り越えていく力を持っています。その力とは、企業で働く従業員1人ひとりの存在です。就職活動中の皆さんが近い将来、社会に羽ばたいた時、皆さん自身の力を発揮することで会社の未来を切り開き、日本の経済そのものの発展に貢献していくことを、どうか心の片隅にとどめておいていただければと思います。
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